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玉嶋屋の歴史

江戸より続く玉嶋屋

玉嶋屋の羊羹

当家の羊羹は江戸時代には東北各地の大名に所望されたと伝わっています。
二本松のお殿様(丹羽公)は徳川将軍家に献上していました。
作ってから献上されるころには、表面が砂糖でおおわれて、表面のサクサクとした食感のここちよさと、あっさりと上品な小豆の風味が将軍を満足させたと思います。
 玉嶋屋の当主は代々この江戸時代からの製法を残し、味をかえないように努めてまいりました。薪を燃料にして煉り、配合や竹の皮にじかに包んで仕上げるなどのディテールまでを変えないで作っています。この一連の手作業の中に次の世代に残すべき大切なものがあるという思いがあります。先代からのいとなみを続ける中で、平成8年には今上天皇陛下(皇太子殿下時代) にもお召し上がりいただくことができました。

二本松藩御用達

江戸時代二本松藩丹羽様の最初の御用菓子は玉屋(安斎茂兵衛)※現在は終業しております。
が江戸で羊羹の秘伝を学び製造しておりました。
それを玉嶋屋が引き継ぎ今日に至っております。

羊羹と一緒に引き継いだ品

「嶽の氷餅」 
将軍家への献上品としても使われた銘菓です。藩の管理品として一手販売人和田喜兵衛(玉嶋屋)が販売を任されていましたが、時代と供に需要が無くなり、現在幻の逸品です。明治以降は安達の雪の名前で販売されております。長野の氷餅と同一のものと推測され、岳の寒さと不可分の製品と想像しております。軽く携行できどこでも米が食べられた為二本松藩の重要産品となったそうです。
「志保閑満」
「しおがま」はもともと仙台塩釜の銘菓です。江戸時代に仙台伊達公が「しおがま」を自慢され、丹羽公のそれに勝るものを創生せよとの命により開発されたと伝えられています。その後完成品の出来が大変よく「志保閑満」のあて字は殿様より褒美として賜ったといわれています。ごらんのように玉屋、玉嶋屋ともにこの字を使った「志保閑満」を作っており、現在は玉嶋屋がその商標権をもっております。

玉嶋屋の記述がある文献

「安達郡百番付」
昭和八年に発行。
番付内真ん中列に菓子製造和田長吉。
また「智恵子抄」で知られる高村千恵子様などが見えます。
「安達のみやげ」
右下に玉嶋屋が載っております。

変わらぬ製法

当家の羊羹は江戸時代には東北各地の大名に所望されたと伝わっています。二本松のお殿様(丹羽公)は徳川将軍家に献上していました。 玉嶋屋の当主は代々この江戸時代からの製法を残し味をかえないように努めてまいりました。ガスが一般化した今でも楢の木を燃料にして煉り、配合や竹の皮にじかに包んで仕上げるなどの細部まで変えないで作っています。

先代からの営みを続ける中で、平成8年には今上天皇陛下(皇太子殿下時代)にもお召し上がりいただくことができました。そしていまも丹羽家ゆかりの方にも当家のお菓子をお召し上がりいただいていることをささやかな誇りに思っています。



 

第一回の菓子物産展

東京白木屋で 大正五年三月に開かれた 第一回の菓子物産展の パンフレット
出店一覧
二本松町から和田喜兵衛(玉嶋屋)
福島市から安斎茂兵衛様(玉屋)
が出店したのがわかります。
福島県のコーナー
パンフレット、上記の「お菓子の歴史」の通り玉屋の末裔の方は、福島で商売をし、歴史に幕を降ろしました。

現代へ受け継がれる伝統の味

創業よりかわらない製法で「伝統の味」を受け継ぎ、手間暇をかけ丹精込めて作り続けてきました。
遠方から店頭に足を運んで頂ける方もおり、「二本松の名物」とまでになりました。これからも「変わらぬ製法・変わらぬ味」を守り続け、皆様に愛されるお店であり続けます。


当社がこれまで携わってきた各製品をご紹介しています。
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